9月も下旬となり日中こそ未だ暑い日もあるが、漸く日差しも和らいできた。暑さ寒さも彼岸までとはよくいったものだ。
季節が移り変わり秋が来る。季節の変わり目だ。
メディアでは連日のように自民党の前倒し総裁選を報道している。政治の世界も変わり目に来ているようだ。
そんななか縁があって以前お会いした方から有名な料亭に招待された。つくづく縁とは不思議なものである。
出会いは大切にしたい。
さて料亭ではいつも少数だとカウンター席をご用意して頂いている。カウンター席で店主と話しながら食事するのが好きだからである。
話しの内容はその時々で違うが、決まって質問することが幾つかある。出身地である。わたしが愛媛県の出身であり県外の人間だからであろう。住み慣れた故郷を後にして違った土地で生きていくのはそれなりの覚悟と思いがあるはずだ。なぜ福岡に来たのか聞いてみる。
店主は山口県萩市の出身だという。山口県萩市をいえば、かの有名な尊敬する人物、幕末の偉人である吉田松陰先生の出身地である。
嬉しくなり「吉田松陰先生の出身地ですね」と気軽に言った。すると驚いたような表情で「多くの人は吉田松陰と名前だけで呼ばれる。先生とつけて呼ばれるのは初めてです」と笑顔でお話してくれた(萩市の多くの方々は吉田松陰先生と先生をつけて呼ばれるらしい)
そこから話が盛り上がり同じカウンター席にいらっしゃた数人も吉田松陰先生について話されていた。今でも功績を語られるとはなんて偉大な人物だろうか!余談であるが数を数える単位として、その生き物の象徴的な部分が使用される。魚であるが1尾、鳥は1羽、牛や豚は1頭といった単位である。では人間はどうか?それは名である。つまり人間の象徴は名であるといえる。だからこそ名に恥じない生き方をしなければならない。「死んで名を残す」「死んでも名は残る」である。
少し話は逸れたが松陰先生の逸話から凄いと思うところを幾つか紹介したい。
近現代史において幕末は激しく時代が動いた動乱期であり、これほどドラマティックな時代はないと思う。
簡単ではあるが時代背景を説明したい。当時は徳川幕府が統治しており海外では多くの有色人種の国が植民地支配されていた。我が国も例外ではなく、異国の脅威に晒されていた。黒船のペリー来航から開国を迫られ幕府は慌て諸藩から様々な意見が寄せられ国は分断の危機にあった。不思議なものでこのような危機の時代、変革の時代には異才を放つ多くの人物が現れる。もしかしたら人間の集団的無意識に関係するのかもしれない。社会心理学を学べばヒントが得られるかもしれない。勉強しようと思う。
吉田松陰先生も異才を放つ偉人の一人であった。とにかく枠からはみ出たぶっ飛び方が凄い!
先ずペリーが来た時に興味関心が抑えきれず黒船に船を漕いで乗り込みアメリカに連れて行ってくれ!とお願いし、断られ泣く泣く戻ってきて投獄されてしまう。そして安政の大獄で再び捕らえられ長州(今の山口県)から江戸に全身縄をかけられた状態で運ばれる。道中24時間ずっとしゃべっていたそうですから驚きだ。そしてその話を聞かされた当時の警察、看守、護衛の者も松陰先生の話に感銘を受け、なかには泣く人も多かったようである。驚くのはこのバイタリティ、情熱、行動力だ。松陰先生は教育者ですから想像するにこの情熱で教育されていた門下生への影響力は凄まじかったと思う。
影響を受けた著名な門下生には久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤俊輔(後の伊藤博文)、山県有朋、岩崎弥太郎(三菱の創始者)がいる。
ご存じの方も多いとは思うが、近代国家を作り上げた要人であり、この偉人達が活躍できたのは吉田松陰先生にお陰であろう。
このバイタリティ、情熱、行動力はどこからくるのか?医療者らしく生理学的に考えてみるとテストステロン(男性ホルモン・行動力の源)の値が高かったのではないかと想像する。行動から考えるとADHDの疑いのある人物だったのかもしれない。今では障害に区分されているが、時代背景によって障害ではなく重宝される必要な障害、個性であったのかもしれない。
年齢を重ねていつしかバイタリティ、情熱、行動力が失われていないだろうか?なんでも歳のせいにしていないだろうか?
自問自答しながら頑張ろうと思う今日この頃である。
今年は戦後80年です。余り知られていませんが石原莞爾をご紹介する予定です。
ご一読して頂ければ幸いです。
※安政の大獄 1858年から1859年にかけて、江戸幕府の大老・井伊直弼が、幕府の政策に反対する勢力を弾圧した事件です。
残念なことに29歳の若さで処刑され亡くなりました。
辞世の句として「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」
意味は「この身はたとえ武蔵野の地に朽ち果てようとも、私の大和魂は、国を守るためにこの世にとどまり続けていたいものだ」